青学立て看同好会への応答

声明の匿名性に関する批判

仁科夏瑚

 応答、というべきか。そもそも当該声明の主たる批判対象は「立て看同好会」及び「全国学生行動連絡会(全学連)」で、言及のあった「陰核派」や「ネオ幕府」は「論外」のような扱いだった。というわけで、そもそもからして応答も何も、ないと言えばないのだが、名前を出された上で雑に言及をされたからにはこちらからも小石を投げ返そうと思う。

 はっきり言えば、私はこの声明に書かれている内容には一切関心がない。「外山に関わった時点で未来の殺人に加担」と言うけれども、私からすればあらゆる人間は、つねにすでに誰かを殺して生きながらえている。そうした自覚が、あなた方、いやこの声明文を書いたあなたには欠如している。

 私はこの声明文のようなものが全体を覆ったソビエト連邦という窮屈な体制が、また同様に「あらゆる差別に反対」するリベラルが牛耳るアメリカという野蛮な国が、無数の人間を殺してきたことを無視するほど面の皮が厚くない。もちろん、いわんやイタリア・ファシズム体制をや、だ。あなたにとって私たちが「論外」なのと同様、私もあなたのような立場を「論外」と思っている。

 私たちは旅の途上にいる。政治はあらゆる現実の制約を受け、思想はこうした歴史的事実を差し置いて、ユートピアを夢想する。だから、あなたの声明文を読んで思うことは、「こういう奴らにあたしは殺されるんだ」ということだけだ。そして、あなたの殺した自覚のなさは、あなたの文章が匿名で出されたことにも表れている。

 結局のところ、この声明文を書いたのは一体誰なんだ。これだけ全方位を批判の射程に入れ、「快楽殺人者」のレッテルをばら撒いたのだから、さぞ高尚な人間に違いない。それはきっと釈迦やキリストに匹敵する人物である。それに、上から目線で「男性ヘゲモニー」を批判する様を見たところ、書いたのはおそらく女性に違いない。

 これは素晴らしい。是非とも名乗り出てもらいたいものである。私もあなたのような聖人君子に着いて行きたかった。私のような女の端くれにも置けぬ愚か者を、どうか導いていただきたい。ところが、だ。この声明文を出した人物は「青学立て看同好会」所属ということしかわからない。匿名では声明に対する批判は愚か、賛同することすらできない。

 いかなる個人も文面に責任を負っていないのだから、どんなことでも言える。私だって、誰も傷つけたくはないし、そのためには誰も生まれないほうがいいんだとすら思っていたこともあった。

 しかしこんなことは机上でいくら議論しても、世界に光をもたらしたことにはならないんだ。それはあなたの独善的無謬主義(マスターベーション)でしかない。部屋で寝ている者は、外にいる者を見下しながら誰も殺さずに生きていくことができる。匿名での批判は、そうやって外の現実から目をそらして、部屋から窓枠越しに小石を投げるのと同じだ。

 それに、聞いたところによると、どうもこの文章を書いたのは男性らしいということじゃないか。私には青学立て看の友達もいるんだが、誰がこの文章をdiscordサーバーに貼ったかまではもう聞いてしまった。

 男性の語るフェミニズムなどというものは、すべてが「女性崇拝(あるいはその裏側としての女性嫌悪)」と言って差し支えなく、私はそれを一つも支持しない。そこには女性は存在せず、女神しかいないからだ。女神の崇拝は、自らの道徳的価値を高めて人を裁くためのごまかし、すなわち価値の転倒(ルサンチマン)にすぎない。あなたが「祈り」という言葉を使ったことは偶然ではない。

 陰核派はあなたの言うところの「男性のヘゲモニー」ってやつを解体することを結構真剣に考え、取り組んできた。だから全国の立て看同好会の、クソくだらない立て看にイラつく気持ちもわかる。だけど男性がそれを代弁したのなら、「男性のヘゲモニー」と何も変わらないだろう。

 世界ってのは楽しくあるべきだと思う。萌え看板一つ建てられない世界じゃ、私も結局部屋から出られないじゃないか。だから私も、あいつらに対抗して、私の好きなもので世界を満たしたいと思ってるんだ。

 ということだから、とにかく私は匿名で石を投げられたことはとにかく許せないし、あともしほんとに男があの文章書いてるんだったらそれは早々に謝ってほしい。陰核派は少なくとも無記名で文章は出させない。メンバー全体での見解の統一も必要ないと思っている。だから「陰核派の声明」なんてヤワなものは出さない。意見のあるメンバーには自分で書いてもらったから、ここから先も是非読んでやって欲しい。みんなで部屋を出よう。


『ある祈り——現代の学生運動に携わるひとへ』(文:学生・匿名)の「あら捜し」

学生・パノプティコンの真ん中にいる人

生成ワード「奥にガードレールがあるモノクロの写真」

・一応「大阪大学タテカン同好会」を主宰している身として、元日早々に青学立て看同好会から出された匿名での文章『ある祈り——現代の学生運動に携わるひとへ』(以下:「祈り」)について議論する資格と責任はある(といっても著者の言う「立て看運動」は関東の数大学群における話でしかないと思っているが)だろうので言及する。

 といっても、「祈り」には自己矛盾や視野狭窄さ、前提のあいまいさが多分に見られ、この文章を土台に議論しても実りある結論が得られるとは思えない(著者は「議論」を望んでいないかもしれないが)ので、本稿では議論の前段階として「あら捜し」を行う。

・まず、「祈り」は匿名とされているが完全に匿名になっていない。青学立て看同好会の「祈り」公開告知ツイート(※1)に記載されている、文章ダウンロード用のGoogleドライブにアクセスすると、アップロード者として明らかに個人使用されているメールアドレスが記載されている。あえてここに載せはしないが、見る人が見れば誰が書いたか、もしくは代理でアップロードしたかわかるようになっているのではないか。「祈り」は、著者が匿名であることが強調され、反論を浴びせる先自体を秘匿することで「議論」を発生させまいとしたのだろうが、どだい完全な「匿名」ではない(「匿名性」は発生していない)。メールアドレスが誰のものかという詮索が発生する可能性もあるし、そもそも「青学立て看同好会」の名義で文章を出している以上「青学立て看同好会」には応答義務は生じてしまう。もし「匿名」にしたいのであれば、メールアドレスを個人特定できないものにする、そもそも「青学立て看同好会」のアカウントでなく個人の捨て垢で出すくらいはすべきだろう。もしくは、それこそその主張を立て看にするか、批判対象である東大かどこかの立て看同好会の立て看に貼りつければ良い。

※1: https://x.com/agutatekan/status/1874289497778851909

生成ワード「鉄道の信号のモノクロ写真」

・次から、本文に言及する。「祈り」5ページにて、

しかし、それは、外山が何をしたか、外山に言及することがどんな効果をもつのかを、あまりにも軽視している。「直接でない影響」とは、直接の影響そのものでしかないからだ。外山にいっさいの肯定的な関わりをもった時点で、その瞬間に、それは直接的な影響にしかなりえない。関わりそのものを、ただちに永久に絶とうとするのでなければ。

ほんの一例をあげるなら、外山の影響をうけた組織「ネオ幕府」や「陰核派」は、その周辺の取り巻きをふくめて、ファシストの追従にとどまらず、ヘイトスピーチを拡散し、現に生きられている生を死へと追いやっている。

と書かれているが、私が読んだ限り「外山が何をしたか」「外山に言及することがどんな効果をもつのか」が具体的にどのような行為、もしくは過去の出来事を意味するのかは最後まで説明されなかった。「『ネオ幕府』や『陰核派』~ヘイトスピーチを拡散し、現に生きられている生を死へと追いやっている」についても同様である。外山合宿出身者であり、「陰核派」党員である私としても、どのような行為がいかに悪いのかを説明されれば、場所によってはその行為を控えようとするかもしれないし、もしかしたら感服して「関わりそのものを、ただちに永久に絶とうとする」かもしれないが、何がどう悪いのか批判されずにただ批判されても困る。

・更に、同ページの

ファシストを名乗る何者かにひとかけらもの肯定を向けることが、すでにあまりにおかしい。ファシストは、その名乗りにおいて、未来の殺人を現在時点で完遂していることに等しいものである。そうした者らへ肯定的に言及すること自体が、二次的な加害でしかない。

という論法は「運動」をする人間にとって自己破壊的である。なぜなら、「運動」に対して、「なぜ『共産主義』が悪いのか」の説明もなくただ「共産主義者である」とレッテルを貼るだけでそれを毀損できる現状を肯定するものであるからだ。例えば、1950年代の「赤狩り」に代表されるように、アメリカでは時として「共産主義者」はそれこそ「祈り」での「ファシスト」と同程度他者を貶める言葉となる。他者を24年6月の東大における「総長対話」時の警察導入などの騒動において、(なぜそれが駄目なのかの説明もなく)「民青が主導している」という批判がされ、それがそれなりに大衆を納得させたことは記憶に新しい。「赤狩り」を嫌うのであれば、「ファシズム」をどう定義するか、「ファシスト」はなぜ悪いかを定義してから非難すべきである。さもなければ、Xで「共産主義者め!」と引リツをつけられても文句のつけようもなくなる。

・ページ9の、

「立て看運動」、および「ノンセクトの学生運動」は、フェミニズムの問題意識、その視点をあまりにも後回しにしてきた。話題にすることそのものが、男性の結託によって阻害され、分断されてきた。性差別の状況が蔓延しているのは、その必然的な帰結にすぎない。

について、著者が「立て看運動」という時つまるところ、青学・早稲田・東大など関東の「立て看」界隈しか見ていないのではないかと思うのである。結局、関東の界隈で著者が不満に思うことについて、その話を「立て看運動」全体に拡大して言っているだけではないのか。関東の界隈に身を置く人間であれば「祈り」が具体的に何を/誰を問題にしているのか検討がつくものかもしれないが、大阪の私にとっては関東の知らないゴタゴタをもって自分のことを論じられても「知らんがな」としか思えない。そもそも、3ページの

学生たちが、立ちあがった。パレスチナのために。それが二〇二三年十月からのお話。それから、翌年の四月、あたらしい「立て看同好会」が動きはじめた。(略)

立て看の流れはふたつあった。ひとつめは、すでにいったように、パレスチナ連帯。それがあたらしい立て看の潮流だった。もうひとつは、むかしからあった。数年前によくみた京都大学や、まえの世紀の学生運動や、「ノンセクト・ラジカル」とよばれたひとたちが、文脈にある。

生成ワード「ビルの建設現場のモノクロ写真 人を描写しないで」

後者(むかしからのもの)は、とりわけ大学自治が中心的な課題だった。(もちろん前者も、問題にしていないことはなく、地続きだ。)学生たちは自由を求めていたのだ。それが、俗にいう「立て看運動」ということになっている。

という「立て看運動」の歴史認識からして、視野狭窄が過ぎる。「翌年の四月、あたらしい『立て看同好会』が動きはじめた」については、「パレスチナ連帯」を主たる活動目的とする「明治大学立て看同好会」は2023年10月に活動を開始していることが指摘されているし、「阪大タテカン同好会」(一般名詞的な「立て看」と文化としての「タテカン」を区別する意図であえて「タテカン」としている)は2024年4月に活動を開始したが、その活動はむしろ懐古や大学自治を中心的な課題とする「むかしからのもの」である。阪大タテカン同は、1980年代に廃寮となった阪大の自治寮「宮山寮」「鴻池寮」の廃寮阻止闘争にて建てられた立て看を「原風景」とし、「学生運動的なもの」の蘇生を主目的にしている。なお、両自治寮の精神的後継者、そして「学生自治」のためのプラットフォームとして、「非実在自治寮『迷道館』」が2024年11月に「建寮」されている。

 結局、著者が自らの周りの界隈で見たことについてを、「立て看運動」全体のこととして論じているだけではないのか。単なる関東の狭い「立て看界隈」に対する美辞麗句を連ねた愚痴に過ぎないのではないか。説得性を持たせるためには、どの同好会のどういう行為がどう問題なのかと指摘しないといけない。

 こんな事を言うと「そして、偽りなく解放のための運動とは、けっしてワンイシューを掲げるものではない」と言われるかもしれないが、著者が不満を持つのであれば自分が思うような「立て看同好会」を作れば良いだけだろうと思う。なぜなら、立て看自体は(「抗議運動」としての文脈をかなりの程度纏っているとはいえ)単なる表現方法に過ぎないからである。「立て看」を「同好」しているだけで、「脱植民地化しろ」とか「ホモソーシャルを解体しろ」とか言われるのはおかしい話である。まあやらないよりはやったほうがいいかもしれない話でもあるが、それならそうで具体的に何をどうすればいいのかも書かないと「愚痴」の域を出ない。問題意識と対象の範囲に具体性を持たせて初めて「祈り」は実りある議論を積み重ねられる問題提起となるだろう。どうやら著者は「議論」を望んていないらしいが。

 なお、当文章内のイラストはすべてMicrosoft社のAI”Copilot”に生成させたものである。

文:学生・パノプティコンの真ん中にいる人

2025年1月

生成ワード「花の接写のモノクロ写真」


青学文書は誰のために書かれたのか

町山凛音

 2025年1月1日、それはTwitter上に匿名で公開された。「ある祈り——現代の学生運動に携わるひとへ」と題されたそれは、内容としては外山恒一を中心としたファシストたちによるヘイトスピーチと立て看同好会(およびノンセクト左翼学生運動)における性差別構造の告発と糾弾である。さて、この文章の射程とするところは意外に(おそらくは書いた本人が意図したよりも)長く、様々な余波が観測された。主な点としては以下①文責②事実レベルの誤謬③意図的な無記載。

 ①についてはTwitter上で投稿されたアカウントが問題になった。青山学院立て看同好会なのである。投稿者は匿名であるが、匿名であることと「青学立看」のアカウントから投稿することはどう関係するか。端的に言えば、この文章の内容に青学立看は賛同するのか、匿名投稿者へ反論がある場合対話の場は設けられるか、などだ。結局のところ青学立看に代表者はいない、全員が賛同するような形式でTwitterを運用していない、ということで青学立看は逃げ切った。だがこの件で東大立看や明大立看と明確に対立したことは大きな痛手となりうるだろう。なぜなら首都圏の立看運動をリードしてきたのはこれらであり、筆者の観測範囲で動きをみせない京大立看も老舗中の老舗、喧嘩を売るならもっと慎重にやるべきだったが②誤謬によってこの文章には大きな疑義が挟まれる形となった。

 ②事実レベルの誤謬について、まず「新しい立て看同好会」が動き出した時期が違う。これは明大立看の始動を指すべき日付であり、かれらは2023年10月より以前から活動している。次にノンセクト左翼が外山界隈と一体であるかのような表現は誤りである。地方で活動している学生たちには合宿出身者はいないことのほうが多いし、この文章が意図したであろう東大立看にも合宿出身者はおそらくいない。東大ノンセクトは伝統的に合宿へ参加しない。さらに合宿出身者の中でも政治活動をするものは少なく、多くの者は立看どころか政治運動そのものと関係していなかったりする。実はこの誤謬は③意図的な無記載に関係する。誤謬は他にも多く、特に告発の主題である性差別構造に関する反論は決定的だった。立看運動はボーイズクラブではないことが明確な形で示された。これでもって匿名告発者の糾弾は無効化され、あとに残ったのは、せいぜい外山合宿出身者が多すぎる現状を変革するための加速装置程度の意義だ。ずっと以前から計画されていたものを実行に移す時がきた。そして、左翼運動史を教える営みが広がることは外山恒一の意図に適うものだろう。匿名筆者は実のところファシストを利しているのだが、果たしてそこまでが意図されたものだろうか。

 ③意図的な無記載について、この文章が敵として名指すものたち、外山恒一、ネオ幕府、陰核派、京大立看、東大立看、全国学生行動連絡会。ここにはあるべき名前がない。不協和音の会と早稲田大学立て看同好会だ。外山合宿出身者の吉野を中心としたグループであり、最も反リベラルな立場で活動する不協和音の会。かれらを「ヘイトスピーチ」の項に挙げなくてどうして告発が成り立つだろうか。そして立看同好会と外山界隈の結びつき、それが最も強く表れているのは早大立看であろう。なぜこの文章の重要な点である立看同好会がファシストの手先でボーイズクラブであることの何よりの証左足りうる早大立看の名前がないのか。2つの可能性がある。それは早大立看を議論の俎上に載せたくないから。あるいは、早大立看が事実上もはや存在しないことを知っているから。どちらも同じことを示している。「匿名筆者」は早大立看の関係者だ。そして吉野に喧嘩を売ると「本当に」マズイことを知りうる立場であり、合宿出身者ではなく、性差別構造を告発できる立場にある。ここから浮かび上がるのはイトリだ。彼女は早大立看の中心メンバーで、吉野とも親交があり、合宿出身者ではない。女性として性差別構造を告発するには十分な資格がある。だが、1つだけ足りないものがある。「青学立看」との関係性だ。彼女は青学立看を正当化するには関係性が薄すぎる。むしろ青学立看との関係性から考えてみよう。早大立看のメンバーと親しいkenji、あるいは早大立看の元メンバーで青学立看と近しいコウ。kenjiは青学立看のメンバーとして批判に応答した。そして青学立看の改革を試みている。イトリですら文章に対する不同意と反省を単調に述べている。この件で最も静かなのはコウである。

 「匿名」であることはむしろ、書いたのは誰なのか?という興味を引き立てる。本当に辿られたくないのなら、自らの痕跡は隠さなくてはならない。


これは議論ではない(らしい)

出射楽

 私は、党首・775りすと同じく、敬虔なニーチェ主義者なので、何かを信じることもしないし、祈ることも絶対にしない。むしろ、お祈りを捧げる他人の内心を詮索して、ちょっかいをかけて、転ばしてやるのが私の仕事だとさえ思う。趣味のぶち壊し屋。悪役。ニーチェを踏まえていない人間は人文的・歴史的教養がないと決めてかかっている。

 しかし、「ある祈り」(以下、「祈り」と略記)と題されたこの文章は、本当に祈りだったのだろうか。そう考えてみると、否定的な結論に至る。こんなに論理的な祈りはないからだ。これが祈りでなくって本当によかった。本当の祈りに対抗するのはきっと大変だから。ただの言論でよかった。ただの言論で対抗できるから。「祈り」の筆者がいくら議論を望まなかろうと、我々はごちゃごちゃと喋り続けることができるし、それで十分である。私は筋金入りの反ノーディベート主義者だから、舌の根を切り落とされても決して黙らない。党首・775りすは違うらしい。

 「祈り」を読むと、この文章の書き手にとって「陰核派」(あと「ネオ幕府」)が端的に論外の存在であることが確認される。我々は単にヘイトスピーチを撒き散らす団体というレッテルを貼られ、排除される(構わないが)。具体的なヘイトスピーチの事例の指摘は何ひとつない。とはいえ、我々のほうから補うのであれば、『情況』トランスジェンダー特集に関する「陰進」記事において我々がとった態度は、塩野谷恭輔編集長は差別的言説を雑誌に載せることの弁明をする必要などなかった、というもので、多少トリッキーだが、TRA(TRAという言葉は蔑称だが議論の整理のために使う。我々は他称TERFで構わない。こちらも蔑称である)からすれば、ヘイトスピーチにあたるものだったろう、と思う。そのような事実があるのだから、「祈り」の筆者はそのような具体的な指摘をすればよいと思うのだが、そうした記述はなぜか欠落している。

 この欠落からわかることは、「祈り」の筆者が我々をどうとらえているか、ということである。すなわち、説明責任を果たす必要すらない敵、というのが、それである。そして、「祈り」の筆者がそのような乱暴な見解を抱くに至った理由は、おそらく、我々が我々自身に「ファシズム」というこれまた乱暴なレッテルを貼ったからである。「祈り」の筆者はそのレッテルをただ読み上げただけのことである。そして、ファシズムについての具体的な議論も当然しない。問答無用の敵については何も言わない、というのが「祈り」のスタイルである。

 もしかすると「祈り」の筆者は、書かれるはずだった”それ”を見てショックを受ける読み手のことを慮ったのかもしれない。しかし、徹底的な反ノーディベート派である私は、この沈黙を決して良しとしない。申し訳ないが、慮ることよりも議論が先立つ。組織に従属する人間が本音を言ってよいとすれば、実は、私はファシストでもなんでもない立場を自認している(もっと悪いかもしれないスターリニストだ)。にもかかわらず、私は少なくともファシストの組織に所属しており、その理由は、もしかすると的外れだったかもしれない罵倒のもとに葬り去られてきたファシズムの歴史的・思想的再検討を求めたい、というものである(cf.千坂恭二『思想としてのファシズム』)。私は過激派の思考の再起動を求めており、そのためにはファシストを議論に参加させるべきだと思う。こんな言葉は聞き届けられるわけがない、とさえ思わないほど今の私は楽観的である。

 「祈り」のスタイルは、さらに深化していく。外山合宿に行った連中への外山からのファシズム的影響は拭えないから全員追い出せ、ゲバ文字で喜ぶような全共闘の残滓=ボーイズクラブ的心性を捨てよ、といった具合に、筆者は祈り続ける。ここに至っては、「全国学生行動連絡会」などさえ槍玉に上がっている。いわく、「外山派」を全員追い出し、ボーイズクラブを全廃し、交差的フェミニズムを掲げたときにだけ、本当に純粋な立て看運動が可能になるのだ、というようなことである。

 このようなスタイルの深化に、私は少なからず共感を覚える。私自身、早稲田大学立て看同好会に所属していた時期があり(……今も所属しているのだろうか?)、そのとき他大学が作るインターネットミームを用いた立て看に対してかなりの嫌悪感を持っていたからである。あれらは弛緩していて、ないほうがマシだと思った。私は私で、「祈り」の筆者とは反対の方向からではあるが、運動の過激化を願っていたのである。だから、「大学解体を掲げない立て看運動に意味はない」などと宣っていた時期さえあった。まさに真逆の方向性である。

 だが、私は「祈り」を認めない。もちろん言うまでもなく「祈り」はひとつの「正しい答え」なのである。それは、ノンセクト左翼の歴史的必然性に導かれた一つの回答である。そのことは疑いようがない。自己の加害性を厳しく認識し、潔癖な苦行僧的態度を貫いて自分と他人を糾弾し続ける、そのような在り方はある面では左翼的に正しい。

 ただし、それは自分と他人を徹底的に切り詰めてゆく苦しい道であることも確かである。我々は、その論理が東アジア反日武装戦線にまで行きつかざるをえないことを知っている。というより、それが人を問い詰めて殺す論理だと知っている(もちろん、敬虔なニーチェ主義者である私は、「殺すのはダメだ」などと単純なことは言わない)。立て看運動に何か一つでも美点があったとすれば、それは自己と他者を切り詰める運動への反省から出発していたということだろう。そのような歴史的教養を、我々は「教養強化合宿」で身につけてきたし、合宿に行ってない人も、左翼的教養として身につけてきたのだと思う。

 私の考えでは、「祈り」の筆者は歴史性がどうしてもイヤなのである。許せないのである。それは、人類の歴史の全体が差別と不正に塗れたものだったからでもあるかもしれない。だからこそ、「祈り」の筆者は〈今・ここ〉で祈り続ける。

 しかし、私はそのような意味での〈今・ここ〉の特権性を決して認めない。その証拠に、「祈り」の筆者が全共闘などの歴史を否定して〈今・ここ〉で祈っているつもりの祈りは、実は左翼がたどってきた歴史を無自覚に反復しているにすぎないのである。歴史を切り捨てることは決してできない。私はあなたを歴史化しうる。私の指摘は本質的にはこのことに尽きる。

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